Web2.0な監視社会? (3)

このエントリでは以上のような事態を考えるのに、「ユビキタス・ブラウザ」とか「Web 2.0 な監視社会?」というアイデアをとりあえず立ててみている。「ユビキタス」ってのは遍在を表す言葉で、もともと「神の」遍在を指し示す宗教的なニュアンスの言葉だったと理解している。ここでは個人レベルまで浸透した監視の遍在を論じたいので、本当はこの「神の」に由来する言葉は相応しくないのかもしれない。が、とりあえず。

またWeb2.0についても一応参照しておく。

「「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」がその本質だと私は考えている。不特定多数の人々には、サービスのユーザもいれば、サービスを開発する開発者も含まれる。誰もが自由に、別に誰かの許可を得なくても、あるサービスの発展や、ひいてはウェブ全体の発展に参加できる構造。それがWeb 2.0の本質である。」
梅田望夫ウェブ進化論ちくま新書、2006年2月、120頁)

ここでは、この「不特定多数の人々(や企業)」が「能動的な表現者」──ここでは「=監視者」になりうる、という事態が、まあこの言葉を暫定的に使っていいかな、と思ったゆえん。

しかしこの言葉、観察するに新しがりのかけ声や、それに乗ってお金儲けしようという魂胆で使われていることも多いように感じられ、個人的にはちょっと乗り切れない言葉ではある。それに梅田さんの『ウェブ進化論』には、以下のような発言も参照されていた。

「道具を人々の手に行き渡らせるんだ。皆が一緒に働いたり、共有したり、協働したりで着る道具を。「人々は善だ」という信念から始めるんだ。そしてそれらが結びついたものも必然的に善に違いない。そう、それで世界が変わるはずだ。Web 2.0 とはそういうことなんだ」
(ピエール・オミディヤー、引用は梅田同書、121-2頁)

人々は、「善」なんだろうか。私はここまで楽観的にはなれないし、悪意の吹きだまりのような場所が、ネット上にあることも知っている。「Web2.0」はそうした悪意すら、大量に乗せて走っていくはずではないのか。それが、レッシグのいう〈アーキテクチャ層〉にも関わる変化なのだとしたら、なおさらそのはずなのだが。

まあ細かいつっこみはともかく、当て逃げ動画事件を整理してみると、次のようなテクノロジーやメディアが関与していたことに気付く。

  • Aさんのドライブレコーダ
  • 車両番号のデータベース(陸運)
  • ブログと動画配信サービス
  • 2chという巨大掲示板
  • Youtube, ニコニコ動画など著名動画サービス
  • ネットのニュースサイト
  • mixiにおけるBさんの日記
  • ネット上での「攻撃」
  • 現実世界での「攻撃」
  • デジカメ画像、音声ファイルのアップロード
  • 従来型マスメディアの後追い報道(テレビ、新聞)
  • 中傷ビラ

当て逃げ動画事件においては、以上すべての要素が複合し、監視網を創発したと考えられる(複数の技術のマッシュアップによる「権力」の「創発」についてはアンカテのエントリ「Flickrが公共Nシステムになる日」が参考になります)。Bさんをめぐる監視網は、もともとそこに存在していたわけではない。彼はわれわれと同じ普通の生活者であり、われわれと同じ程度にしか「監視」されていなかった。ところが、彼の所有する車が当て逃げ事件の加害車両となったことを発端に、あっという間に、あたかもそこにすでにあったかのような監視網が恐ろしい密度でできあがる。彼は住所と本名を曝され家族構成を曝され顔写真を曝され自宅の写真を曝されmixiの日記が荒らされ会社に抗議と悪戯の電話・メール・書き込みが殺到し電柱に中傷ビラを貼られテレビニュースの取材が来、そして解雇された。

もともとそこにあったわけではない監視が、ある一つの出来事をきっかけに、急速に組織化されていき、すでに監視網が存在していたのと同じ効果を発揮したのである。それはネットとリアルをまたいで生起する。

私は正直に言って、これを恐ろしいと思った。いまや監視は、国家によるものでも、大企業によるものでもない。個人をも含む「監視の目」が、ゆるやかに、しかし漏れることなくわれわれの日常を覆いつつある。いまここに監視網はないが、ふとしたことをきっかけに、私を見はる監視網が、あたかもずっと以前からそこにあったような顔をして立ち現れる。そうした社会に、我々はいますでに生きているのかもしれない。