ライアン『監視社会』に導かれつつ

デイヴィッド・ライアン『監視社会』(青土社2002)
メモっておいたファイルから、テーゼ風に貼り付けておく。

監視にはつねに、人々が喜んで受け入れるような、それなりの正当化がともなう。(15)

監視という問題は、ここでは、社会学的関心の対象として考察される。それが、社会の秩序編成そのものに寄与するからだ。つまり、監視の「もう一つの顔」は、それが担う、社会的・経済的分割を強化する働き、選択を誘導し、欲望に方向を与え、いざとなれば束縛・管理するという働きに由来するのである。(16)

新たな監視体制は、公的/私的の境界線を根底から揺り動かす方向にある。(21)

監視にはつねに意図・価値・権力関係が表現されるとしても、監視自体が本来的に否定的・有害・反社会的であるというわけではない。(32)

プライヴァシーへの欲望が監視の高まりを促している(40)

クライヴ・ノリスとゲイリー・アームストロングの「拡張可能な変動性」という概念である。彼らはこの概念を用いて、一つの目的のために設置されたはずの監視カメラが、他の目的にも使われるようになる過程を究明した。(48)

監視社会という概念は、固定された一状態ではなく、社会的な方向性、多分に重要な社会の深層的趨勢を指し示している。それだから、私は、監視という継続的で双方向的なプロセスを含む「社会的オーケストレーション」のような何かが起こっていると考えたいのだ。(56)

あれこれのシステムに把握される当人が自分自身の監視に参加するのである。(78)

 いろいろ考えさせられる記述が多い。とりあえず、「転用」の問題だけ、次回エントリしておこう。